安政6年(1859)11月、幕府は日米修好通商条約批准交換のため使節派遣を決定し、正使に外国奉行兼神奈川奉行新見豊前守正興、副使に外国奉行兼函館奉行村垣淡路守範正、監察に目付小栗豊後守忠順以下随員70余名を任命して、アメリカ軍艦ポーハタン(Powhatan)に便乗せしめ、ワシントンに向かわせることにした。随行艦として幕府軍艦咸臨丸の派遣も決まった。
11月24日、咸臨丸乗り組みのチーフオフィサーとして提督(軍艦奉行)木村摂津守喜毅・船将(海軍操練所練習艦朝陽丸艦長)海舟勝麟太郎らが任命された。乗組士官のうち、浦賀奉行所から選ばれた佐々倉桐太郎・浜口興右衛門・山本金次郎・岡田以蔵らは、いずれも長崎海軍伝習所でオランダ式海軍技術を学んだ仲間だったが、同じ長崎で学んだ、勝海舟と同期生で将来を嘱目されていた中島三郎助だけは随行の人選から除外されていた。
勝海舟は、随行艦咸臨丸の船将の職を受諾するにあたり、わざわざ長崎以来の盟友中島を訪れ、今回の渡航に関して咸臨丸の航洋性や艦齢からみた船体強度の問題についての懸念と、船旅に弱い自己の身体上の危惧などから、万一不幸にして沈没・遭難など不測の事態を惹起した場合に備えて、後図を託するため、枉げて中島の国内残留を懇請したのだとつたえられている。
これは、海舟が船将として任に就くにあたり、その責務達成のために、死を賭しての悲壮な決意をしていたことが伺われる話である。たまたま浦賀に来て中島宅を訪れた海舟は、その足で東浦賀叶明神別当耀真山永神寺に詣り、境内にある井戸水を汲んで潔斎・水垢離を済ませ、修行用の法衣に心身を整えた後、苔むした山道を山頂に登り,千古欝蒼とした樹林に囲まれた奥の院の片隅、幽邃の地を選んで座禅を組み、断食修行に入ったのである。思うに、叶明神の祭神である原初の八幡神は、もともと海神で航海・渡航の守護神であることを、多分中島三郎助から聞いていた海舟は、今回の太平洋横断航海の一路平安について、叶神社の加護を祈念し、併せて自己の精神的並びに肉体的荷重圧迫の克服を謀るために、断食修行を思い立ったのであろう。
海舟の断食修行の期日については、今のところ正確な記録が見当たらない。思うに、海舟が随行艦咸臨丸船将に決まった安政6年(1859)11月24日には、当の咸臨丸は泊地神奈川(横浜)から品川沖に回航され、幕府の石川島造船所に入渠して直ちに随行に必要な改装の大工事を受けている。そして工事が完了し、すべての準備を整えて品川沖を出港したのは翌万延元年(1860)1月13日、浦賀に寄港したのは同17日で、愈、壮途に上ったのは同月19日であった。
この間の咸臨丸の日程から推測すると、船将海舟が東浦賀での断食修行の可能な期間は、咸臨丸改装工事中の安政6年(1859)11月下旬から、翌万延元年(1860)1月、咸臨丸品川出港前までの、比較的に時間にゆとりのある約1ヵ月半の間のことであったろうと思われる。壮途を前にして浦賀に入港した万延元年(1860)1月16日から、壮途についた同19日までの間には、諸般の事情を総合してみて、海舟には断食修行の時間はなかったとする見方が多いようである。
なお、勝海舟が断食修行の際に着用した法衣は、現在東浦賀叶神社に奉納保存されている。
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勝海舟断食の跡 |
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勝海舟使用の井戸
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断食修業の際着用した法衣 |
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