芭蕉句碑
 拝殿前から恵仁坂を登ると、すぐ左手の樹蔭に浦賀港を見下ろすように自然石の碑が立っている。碑面の上部には篆額「正風宗師之碑」が刻まれ、建立者福井貞斎の筆で、「丹よ起 く と帆はし良寒き入江哉」の句が彫られている。この句「にょきにょきと帆柱寒き入江かな」は元禄9年(1696)版の『反古集』(遊林編)に芭蕉の吟として載せられているものである。若き日の芭蕉(松尾桃青)が、郷里伊賀上野の天満宮に『貝おほひ』(句集)を奉納して江戸に下ったのは、寛文12年(1672)のこと。そして江戸深川にある門弟杉山杉風の生簀の番小屋に居を移したのは延宝8年(1680)、その翌年ある門弟から芭蕉一株を贈られてから、その居を「芭蕉庵」と呼び、門人たちは芭蕉翁と尊んで呼ぶようになった。その芭蕉が『野ざらし紀行』(『甲子吟行』)で知られる故郷への旅に出たのは貞享元年(1684)、それ以後は「片雲の風にさそはれて漂白の思ひやまず・・・」と自ら記している通り、『鹿島紀行』・『芳野紀行』・『更科紀行』の旅から『奥の細道』の旅へと、じっとしていられなかった詩人の心情が汲みとられるような流浪の生活が続けられている。これらの点から総合すると、芭蕉が浦賀に来て例の句を吟じたのは、彼が江戸に下った寛文12年(1672)から、故郷への旅に出た貞享元年(1684)までの間ではなかろうか。
 この碑が東岸の叶神社の境内に建てられたのは、天保14年(1843)冬のことで、浮世絵版画家初代安藤広重が浦賀を訪れて風景版画「日本湊尽」シリーズの「相州浦賀」の雪景色を、やはり東の叶神社の境内から描いたのと、ほぼ同じ頃と思われる。この碑の建立を記念して「四時富士句合」がおこなはれ、富士に寄せた句が最後に寄せられている。
  祖翁の碑をいとなみて
不二晴れよ 翁まつりの茶振舞    企 貞斎
涼しやや 水にすはらぬふじの影  校合 梅薫
《注》梅薫とは、建立者・俳人福井貞斎の娘である。
 碑の篆額に刻まれた「正風」とは、安永・天明の頃(1772〜1789)の俳壇で呼ばれた語で、芭蕉一門の俳風、即ち「蕉風」のことである。また「宗師」とは、第一位の師匠のことだから「正風宗師」とは当然芭蕉を指したものと思われる。「富士句合」の最後に「祖翁」とあるのも、やはり芭蕉のことであろう。
 ただし、一説によれば「にょきにょき」の句は、北村湖春(北村季吟(寛永元年(1624)〜宝永2年(1705))の子)の作ともいわれるが、その辺の考証は定かでない。北村季吟は江戸前期の古典学者で、和歌・俳句を良くし、若い頃の芭蕉は季吟の門に俳諧を学んだことがある。
 なお、この「にょきにょき」の碑の建立者であり、かつ俳人でもあった福井貞斎(寛政3年(1791)〜明治3年(1870))は竹弄舎と号し、仙台の産であるという。その墓は東浦賀専福寺にある。

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